親善大使

石井幹子

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プロフィール

景観や建造物の照明における日本のパイオニア。東京芸術大学卒業後、デザイン会社に勤務していた時に出合った一冊の本を機にヘルシンキ行きを決意。1965年に渡ったフィンランドでは照明の基本である器具デザインを学び、ドイツでも実務経験を積んだ後に帰国。石井幹子デザイン事務所を設立し、照明デザインの普及に努めた。国内の代表作は東京タワーやレインボーブリッジなど。

「当時の日本には、若い女性には
結婚か仕事の二者択一しか
ありませんでしたが、私はそんな考えは
真っ平でした。フィンランドみたいな
国があることに勇気づけられましたね」

  • パッペ先生はまるで母親のように、デザインの基礎からパーティーでの立ち振る舞いまで教えてくれたという。
    Photo: Motoko Ishii Design
  • 石井幹子デザイン事務所のショールーム「ライトオルブ・LIGHT ORB」には、石井がフィンランドのオーロラをイメージしてデザインしたシャンデリアが飾られている。

インタビュー

大学でプロダクトデザインを学んでいた石井さんが、フィンランドにたどり着いた経緯について教えてください。

大学卒業後、東京のデザイン事務所で働いていたとき、照明器具をデザインすることがありました。照明器具から出る光によって、ものの形や色が変わることに驚き、光についてもっと知りたいと思うようになりました。

1960年代は、北欧デザインが世界の主流でした。とくにフィンランドのデザインは素晴らしく、繊細で人間味があって私は夢中になりました。でも当時は1ドル360円の時代。北欧で学べる奨学金もありませんでした。

「スカンディナビアン・ドメスティック・デザイン」という分厚い本で知ったフィンランド人照明デザイナー、リーサ・ヨハンソン=パッペさんのもとで働いてみたいと思い、彼女に手紙を書いて自分の作品集と一緒に郵送したんです。そうしたら一カ月半後に返事が来て、彼女のアシスタント・デザイナーとして雇ってくれることになりました。

1965年7月のことでした。横浜港から船で旧ソ連に渡り、鉄道と飛行機を乗り継いでモスクワに到着し、モスクワから夜行列車でヘルシンキへ向かいました。ちょうど国境を超えるころ太陽が昇ってきて、それはもう素晴らしい瞬間でした。国境沿いのフィンランドの小さな駅は白いペンキが塗られた木造作りで、周りに花が咲いていて美しかったのを鮮明に覚えています。

日本より緯度が高いフィンランドでは、光が入ってくる感じが違いますよね。照明デザイナーとして、どのように感じられましたか?

初めて訪れたヨーロッパで、一番違うと思ったのが「街の光」でした。街に差し込む光が横方向から入ってくるんです。日本では、上から光が入ってきますよね。また日本は、冬でもとても明るいですね。だから家の中にどうやって「気持ちのよい暗み」を作るかということを考えます。床の間はその典型で、暗みがあるからきれい。フィンランドでは、いかに光を取り入れ家の中を明るくするかに苦心します。冬になると花が値上がりするため代わりにキャンドルを使い、それが白いインテリアによく映える。日本とはまったく違う光の使い方をしていました。

当時の日本では、照明は電気工学の一分野でしかなかったそうですね。それで石井さんの上司だったパッペさんは、まるで母親のようにいろいろと教えてくださったとか?

私が働くことになった(照明メーカーの)ストックマン・オルノ社の皆さんも、パッペ先生も、とても優しくしてくださいました。パッペ先生からは、「光は見るのではなく浴びるもの」といった照明の哲学や基本を学びました。それだけでなく、たとえばパーティーに出席したときの立ち振る舞いまで教えてくれたんです。

パッペ先生は一人暮らしだった私を度々自宅にも招いて、コーヒーを飲みながらいろいろな話をしてくれました。どうしてデザイナーになったのか、どうキャリアを積んだのか、フィンランドのデザイン界はどう発展したのか、戦争中の話…。たくさんのいいアドバイスを受けたけれど、フィンランドを離れるときにも貴重な助言をくださいました。「女性が働くうえで、日本はフィンランドより社会的情勢が大変だと思うけれど、大きな組織に属すのではなく、一人でやりなさい」と。

フィンランドに滞在した一年が、その後の仕事に影響したということでしょうか?

ええ。帰国してからも、日本では女性が働くことに対して抵抗がありましたし、実際に働いている女性はほとんどいませんでした。若い女性には結婚か仕事の二者択一しかありませんでしたが、私はそんな考え方は真っ平でした。フィンランドでは(ストックマン・オルノ社が入っていた)ストックマン百貨店の幹部は何名か女性でしたし、チーフバイヤーも女性でした。私がいたデザイン室も、スタッフ5名のうち3名が女性でした。フィンランドみたいな国があるということに勇気づけられましたね。今に日本もああなるんだって。

北欧デザインの黄金期だった1960年代のヘルシンキは、どんな感じだったのでしょう?

ヘルシンキのエスプラナーディ通りのショーウィンドウはモダンデザインや食器などが飾られ、とても素敵でした。落書きもなく、本当に美しかったのを覚えています。

私が感心したのは、一般の人でもフィンランドのデザインに誇りを持っていて、デザイナーの名前もよく知っていたこと。到着したばかりの夏、ヘルシンキの町はずれで中年女性に道を聞いたんです。その方にデザインの勉強をしていると告げたら、「うちにいらっしゃい」と招待されました。素晴らしい照明器具、アルテックの家具、アラビアの陶器…まるでショールームのようだと思ったけれど、それが普通の暮らしだということにびっくりしました。

ヘルシンキでは、皆さん本当に親切でしたね。その後、ドイツやアメリカにも住みましたが、フィンランドで経験したようなことはありませんでした。

2019年、日本とフィンランドは外交関係樹立100周年を迎えます。両国関係はどのように発展していくと思われますか?

26歳のときに初めて行った外国がフィンランドでした。その後の私のキャリアに、フィンランドでの滞在はとても助けになりました。私にとってフィンランドは、とても大事な国なんです。

日本では、フィンランドはまだまだ知られていないと思います。フィンランドがどういう国なのかを、もっと日本の方々に知ってもらいたい。たとえば教育面では、あまり宿題は出さず夏休みも勉強しないのに、高い教育レベルを保ち続けているのはなぜなのか、とか。この100周年を機に、フィンランドを多角的に知ってもらえると嬉しいです。

インタビュー

大学でプロダクトデザインを学んでいた石井さんが、フィンランドにたどり着いた経緯について教えてください。

大学卒業後、東京のデザイン事務所で働いていたとき、照明器具をデザインすることがありました。照明器具から出る光によって、ものの形や色が変わることに驚き、光についてもっと知りたいと思うようになりました。

1960年代は、北欧デザインが世界の主流でした。とくにフィンランドのデザインは素晴らしく、繊細で人間味があって私は夢中になりました。でも当時は1ドル360円の時代。北欧で学べる奨学金もありませんでした。

「スカンディナビアン・ドメスティック・デザイン」という分厚い本で知ったフィンランド人照明デザイナー、リーサ・ヨハンソン=パッペさんのもとで働いてみたいと思い、彼女に手紙を書いて自分の作品集と一緒に郵送したんです。そうしたら一カ月半後に返事が来て、彼女のアシスタント・デザイナーとして雇ってくれることになりました。

1965年7月のことでした。横浜港から船で旧ソ連に渡り、鉄道と飛行機を乗り継いでモスクワに到着し、モスクワから夜行列車でヘルシンキへ向かいました。ちょうど国境を超えるころ太陽が昇ってきて、それはもう素晴らしい瞬間でした。国境沿いのフィンランドの小さな駅は白いペンキが塗られた木造作りで、周りに花が咲いていて美しかったのを鮮明に覚えています。

日本より緯度が高いフィンランドでは、光が入ってくる感じが違いますよね。照明デザイナーとして、どのように感じられましたか?

初めて訪れたヨーロッパで、一番違うと思ったのが「街の光」でした。街に差し込む光が横方向から入ってくるんです。日本では、上から光が入ってきますよね。また日本は、冬でもとても明るいですね。だから家の中にどうやって「気持ちのよい暗み」を作るかということを考えます。床の間はその典型で、暗みがあるからきれい。フィンランドでは、いかに光を取り入れ家の中を明るくするかに苦心します。冬になると花が値上がりするため代わりにキャンドルを使い、それが白いインテリアによく映える。日本とはまったく違う光の使い方をしていました。

当時の日本では、照明は電気工学の一分野でしかなかったそうですね。それで石井さんの上司だったパッペさんは、まるで母親のようにいろいろと教えてくださったとか?

私が働くことになった(照明メーカーの)ストックマン・オルノ社の皆さんも、パッペ先生も、とても優しくしてくださいました。パッペ先生からは、「光は見るのではなく浴びるもの」といった照明の哲学や基本を学びました。それだけでなく、たとえばパーティーに出席したときの立ち振る舞いまで教えてくれたんです。

パッペ先生は一人暮らしだった私を度々自宅にも招いて、コーヒーを飲みながらいろいろな話をしてくれました。どうしてデザイナーになったのか、どうキャリアを積んだのか、フィンランドのデザイン界はどう発展したのか、戦争中の話…。たくさんのいいアドバイスを受けたけれど、フィンランドを離れるときにも貴重な助言をくださいました。「女性が働くうえで、日本はフィンランドより社会的情勢が大変だと思うけれど、大きな組織に属すのではなく、一人でやりなさい」と。

フィンランドに滞在した一年が、その後の仕事に影響したということでしょうか?

ええ。帰国してからも、日本では女性が働くことに対して抵抗がありましたし、実際に働いている女性はほとんどいませんでした。若い女性には結婚か仕事の二者択一しかありませんでしたが、私はそんな考え方は真っ平でした。フィンランドでは(ストックマン・オルノ社が入っていた)ストックマン百貨店の幹部は何名か女性でしたし、チーフバイヤーも女性でした。私がいたデザイン室も、スタッフ5名のうち3名が女性でした。フィンランドみたいな国があるということに勇気づけられましたね。今に日本もああなるんだって。

北欧デザインの黄金期だった1960年代のヘルシンキは、どんな感じだったのでしょう?

ヘルシンキのエスプラナーディ通りのショーウィンドウはモダンデザインや食器などが飾られ、とても素敵でした。落書きもなく、本当に美しかったのを覚えています。

私が感心したのは、一般の人でもフィンランドのデザインに誇りを持っていて、デザイナーの名前もよく知っていたこと。到着したばかりの夏、ヘルシンキの町はずれで中年女性に道を聞いたんです。その方にデザインの勉強をしていると告げたら、「うちにいらっしゃい」と招待されました。素晴らしい照明器具、アルテックの家具、アラビアの陶器…まるでショールームのようだと思ったけれど、それが普通の暮らしだということにびっくりしました。

ヘルシンキでは、皆さん本当に親切でしたね。その後、ドイツやアメリカにも住みましたが、フィンランドで経験したようなことはありませんでした。

2019年、日本とフィンランドは外交関係樹立100周年を迎えます。両国関係はどのように発展していくと思われますか?

26歳のときに初めて行った外国がフィンランドでした。その後の私のキャリアに、フィンランドでの滞在はとても助けになりました。私にとってフィンランドは、とても大事な国なんです。

日本では、フィンランドはまだまだ知られていないと思います。フィンランドがどういう国なのかを、もっと日本の方々に知ってもらいたい。たとえば教育面では、あまり宿題は出さず夏休みも勉強しないのに、高い教育レベルを保ち続けているのはなぜなのか、とか。この100周年を機に、フィンランドを多角的に知ってもらえると嬉しいです。

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